話す人たち
- 東宝プロデューサー
岸田 一晃さん - WOWOWプロデューサー
大瀧 亮さん
映画『ディア・ファミリー』は、愛知県で起きた実話をもとにした家族愛とモノづくりへの情熱が描かれた物語。舞台となった春日井市を中心に、リニア・鉄道館(名古屋市)、芦原小学校(豊橋市)、津島駅(津島市)、豊川稲荷駐車場前交差点(豊川市)、幡豆中学校(西尾市)など、県内7市で撮影されました。
大泉洋さん・菅野美穂さん・福本莉子さんらが出演する本作は、2024年6月14日(金)に全国公開されました。
プロデューサーの岸田一晃さん・大瀧亮さんに、ロケ地の魅力や映画制作の想いをうかがいました。
愛知県を舞台に選んだのは
岸田プロデューサー(以下P):筒井宣政さんの世界的偉業と家族愛の葛藤を描く実話である以上、「その土地の匂いをかぎに行かなければ」という自然の流れで春日井市に入りました。作品のメインロケーションとなるビニール樹脂工場を春日井市の昌和工業さんで撮影できることになり、そこを拠点にできたのはとても運が良かったと思っています。そこから愛知県内を駆けずり回って、ロケ地を探しました。本作では、1970年代・80年代・90年代・2000年代と4つの時代を描いていますが、1970年代の風景が未だに残っている場所はとても希少です。工場がもっている技術を映像として見せ、1970年代の画に説得力を持たせるには、愛知県で撮る必要がありました。
印象に残るロケ地は
大瀧P:物語の中心となる坪井家のお宅です。本作の制作担当(ロケ地選定や交渉の要となるスタッフ)の高橋さんいわく、空き家を中心に探していましたが、なかなかこれといった物件に出合えなかったところ、偶然、美術監督の知り合いの親戚の方が、豊橋市のご自宅を取り壊そうとしている直前に見に行くことができたそうです。外観・内装含め70年代の趣が残っており、まさに理想的なお宅でした。撮影用に壁紙の貼り替えや内装の作り替えも快諾いただき、工場に続いて愛知県内でまた一つ撮影拠点ができたことが弾みになりました。こんなにうまくいくことはめったにありません(笑)
岸田P:私が印象に残っているのは、西尾市にある幡豆中学校前の坂道です。生まれつき心臓病疾患を持つ次女・佳美さんが幼少期から成長する過程をワンカットで描くシーンで、病気の辛さや通学の大変さを抱えながらも、前向きに生きようとする姿が感じられる素晴らしいロケーションでした。
大瀧P:小学校への通学のシーンを撮影した豊川市の豊川稲荷駐車場前交差点も思い出深いですね。幼少期の佳美さんがバギーに乗って登校中、同級生にからかわれ、横断歩道を渡り切れずに道路の真ん中で立ち往生する場面です。20台くらいでしょうか、1970年代の車をお持ちの方に全国から集まっていただき、道路を封鎖して撮影しました。大掛かりな撮影で、他ではなかなかできませんね。
ロケ地に選ぶ条件とは
岸田P:「撮りたいものが撮れるか」に尽きると思います。東京近郊は制限が多くあり、道路を封鎖するとか、大きく土地を使って撮る、といったことがなかなかできません。また、古い時代のものを撮る場合「年代物の建物が残っているか」が重要です。外観や内装が昔のまま残されていても、建物を公開するために床を貼り替えているケースが多く、それだと撮影には使えません。床も含めてすべて当時のまま保全しているのは、かなり貴重です。そういう場所に出合えると「ここだ!」と思いますね。
大瀧P:結果論ではあるのですが、ご当地のものはご当地で撮らせていただくのが一番だと感じています。愛知県のお話を他県で撮るのは違うのかなと。その土地の方に「自分たちの映画」だと思っていただき、一緒に宣伝していただくことは、大きな追い風となり、公開時にパワーとなって跳ね返ってきます。土地に対するリスペクトはとても大事だと思います。
ロケを受け入れる地域の方に伝えたいこと
大瀧P:ロケハンに行くと「ここのどこが良いの?」と皆さんおっしゃいます。その土地にお住まいの方にとってはなんてことない景色でも、映画というフィルターを通すことで、魅力的な場所に感じられることは多々あります。住人にとって「これ【で】いいの?」は、制作側にとって「これ【が】いい」のです。また、日本を舞台にした映画やコンテンツを観て、日本を訪れる外国人も多くいらっしゃいます。外国の方にとっては新鮮に映るでしょうし、我々日本人にとってもこんな場所があったのか!と発見できる喜びがあります。どうか映画の力を信じていただき、ご協力をお願いできれば嬉しいです。
おすすめの愛知グルメ
大瀧P:主演の大泉洋さんからの差し入れ「コンパル」のエビフライサンドや、昌和工業さんからの差し入れ「芳光」のわらび餅はとても美味しかったですね。
愛知は美味しいものがたくさんありすぎて、差し入れ合戦のようになっていました(笑)
岸田P:「矢場とん」も行きましたね。
「宮鍵」の味噌すき(味噌で煮込む鶏鍋)もめちゃくちゃ美味しかったなぁ~(笑)
愛知県の魅力
名古屋は活気ある大都会でありながら、古くて魅力的な建物が大切に残されているところ、少し車を走らせれば美しい緑や海があり、日本の原風景が広がっているところが魅力ですね。そして、食べ物。鰻といえば静岡県の浜松というイメージでしたが、ひつまぶし=名古屋ではないかということで(!?)鰻が本当に美味しかったです。食べ物も愛知県の魅力ですが、今回関わらせていただいた方々の本当に温かいお人柄、これが一番の魅力だと感じました。お陰様で楽しく幸せな撮影ができたことに心から感謝しています。
ロケ誘致を活用した地域活性や観光振興のプロモーションへのアドバイス
岸田P:Google マップのストリートビューではわからないような「ここ、いいよ!」「この道は有名ではないけど、味があるんだ」といった実際に住んでいる方ならではの情報を発信・提案していただけると嬉しいですね。
また、これが一番大切なのですが、隣接した地域のフィルムコミッションや行政と連携していただきたい!市内や県内だけで考えると、ロケ地の近隣で撮影できないと思っていたものが、市や県をまたげば撮影できたというのはよくあることです。
「私の町にはこういう場所があります!その周りにこのような場所があります!」と隣接する市や県で情報を共有・発信し合うことで、地点から地域での撮影が可能になり、さらにプロモーションの際もより広範囲に宣伝展開することができます。
『ディア・ファミリー』 実話ならではの重み
岸田P:筒井家の皆さんの人生をお借りして映画化しているので、そこに対する責任感・プレッシャーは強くありました。筒井家と20年来の仲である原作者の清武英利さんは膨大な取材ノートを抱えており、そこから事実を拾い上げ、物語を構築していくのは、とても緻密で根気のいる作業でした。佳美さんに決して失礼のないようにというのは常に頭にありましたね。
大瀧P:この話はテレビ番組やメディアで放映されたこともあり、実話として知られているものではありますが、我々はドキュメンタリーではなく、あくまでエンターテインメントとして昇華させなければならないという使命がありました。
守らなければならない事実に脚色を加えて、よりこの実話が彩りよく、深く、お客様に刺さるように、原作者の清武英利さん・脚本家の林民夫さんと何度も脚本を練り直し、その都度、筒井さんご本人に確認いただきました。時代検証を重ね、医療機器開発の過程をわかりやすく、かつその閃きがとても素晴らしいものだとわかるように映像化するのは、針の穴を通すような作業で全部署が全身全霊を注ぎました。
岸田P:時代検証という点でいうと、本作の冒頭で宣政さんがアフリカから帰国し、名古屋駅が大きく俯瞰で映るシーンがあります。スタッフ一同、1970年代の名古屋駅をどう再現するか頭を悩ませていたところ、VFX担当者の「当時の写真があれば何とかなるかもしれない」という言葉を聞きつけた、なごや・ロケーション・ナビさんが市役所が保管する当時の写真を見つけてくださいました。
たった1枚のその写真をたよりに、ロケーションナビ・にしおさんのご協力のもと、「一色さかな広場」の広大な駐車場を素材として撮影し、建物や看板、車、タクシーなどはすべてCGで加工しました。高所作業車を使用して撮影し、車やエキストラをどう配置するか、美術でどこまでやるかなど、VFX・撮影それぞれの担当者で検証を重ね、あのワンカットを作り上げていきました。いわゆる「VFX」と呼ばれるものは、ド派手なアクションやSFで使われると思われがちですが、実は風景や背景に多用されていて、一見実写だと思えるようなものでも全てCGだったりします。本作は現代から始まり1970年代に戻る設定のため、1970年代の名古屋駅を完全に再現することで、観ているお客様にも一緒にタイムスリップしていただきます。ここでお客様が少しでも違和感をもつと、それが気になったまま映画を観続けることになってしまうので、時代検証とCGの技術を駆使し、CGと気づかれないよう緻密に作業を行いました。今回のVFXの中で最も成功したカットだと思います。
いまこの時代にこの映画を送り出す意義とは
岸田P:コロナ禍では、映画は不要不急なもの、社会を運用していく上で必要のないもの、三密が全て揃っているものとされ、我々のような職業はほぼ無職になりました。東宝は2020年に1本も映画が撮れず、企画中の全作品の棚卸を行いました。コロナが明けた世界で何が求められるか全く読めませんでしたが、『ディア・ファミリー』は「絶対にやるべきだ」となったのです。本作には医療現場への取材や医療器具のレンタルが必要でしたが、当時の逼迫した医療現場は「映画どころじゃない。来てくれるな」の門前払い状態。それでも会社として「やるべき」となったのは、この物語の企画の強さがあるからだと思います。この作品は「作りたい映画」というより「作らなければいけない映画」でした。宣政さんの想いや、彼らが成し遂げてきたことを映画という媒体を通じて届けたい、そしてこの映画のカテーテルのように、そのバトンが多くの人に広がってほしいと願っています。
大瀧P:世界中が「死」を身近に感じた時期があったからこそ、生きることがどれだけ尊いか実感できたと思いますし、そのことを伝えらえる作品だと思います。機は熟したではないですけれど、未来永劫色あせることなく受け取っていただける作品だと思いますので、我々も映画化を諦めずにねばってよかったです。コロナ禍を経て、世の中にお届けする意義をより感じることができました。
上映後の手応え
大瀧P:実話に対する感動というのは、ある程度予測できた部分もありましたが、医療従事者の方が「こういう想いをもって自分もやっていかなければいけない」「私はまだ頑張れていない」など、背中を後押しされるような作品として感想を寄せていただき、とてもよかったと思っています。この作品では、宣政さんに協力的な人が出てくる一方で、立ちふさがる医学的な課題もたくさん出てきます。それでも一番専門的に描いている職業の方々に届いたというのは「間違いのない作品が作れた」という自信につながりました。
岸田P:三女の寿美さんに「佳美ちゃんが戻ってきてくれたような気持ちになりました。映画を観れば、毎回佳美ちゃんに会える」と言っていただいたのが一番嬉しかったですね。
高橋康進さんによる奇跡続きの裏話
―――春日井市を舞台に
実話である以上、主人公が住んでいた町や経営していた工場を見ずに進めるわけにいかない、とにかく行ってみようと、何もわからないまま春日井市に向かいました。春日井市役所に飛び込んだのは、2022年9月。ちょうどその頃、春日井市の実話をもとにした映画の撮影中で、春日井市観光コンベンション協会の林越さん・若林さんが、当時まだ春日井市にはなかったフィルムコミッションのような仕事を兼務していました。私はこれまでの経験から、このようなタイプの映画は地元の方からのご協力なしには良いかたちにならない、逆に言えば、地元の方の熱意がこの映画を素晴らしいものに押し上げてくれるはずという確信があり、林越さんに「本作は絶対に春日井市で撮影すべきです!」と熱弁を振るいました(笑)
―――工場ロケ地の奇跡
春日井市を中心に愛知県内でロケハンを始めましたが、行く前から大変なロケハンになるだろうとは予想していました。1970年代の風景を探しても、そのまま撮れるのはせいぜい古い建物の内部だけ。道路の路面、白線、標識、周りの建物……みなどこかしら新しくなっていて、美術やCGなどで何らかの加工をするのが大前提でした。
制作部で手分けして、取り壊し寸前の繊維工場、加工の自由な廃墟に近い工場、実際に稼働している樹脂工場などを見てまわり、オープンセットを作ることも含めて撮影許可をいただきました。美術デザイナーの花谷秀文さんと装飾の小山大次郎さんにいくつか候補を見せたところ、(最終的に工場のロケ地となった)昌和工業さんを見た瞬間「これだ!」となりました。奥の古い建物、事務所、狭い路地のような空間、門から見た全体像など、かなりしっくりきたようでした。花谷さんからカメラマンの山田康介さんに「良いところあったんだ。ここならこういうふうにオープンセットを建てられる」と言っていただき、月川翔監督も「ここならいける」と確信し、意外にも運良く、すんなり決まりました。
今思えば、林越さんに初めてお会いし、メインとなる工場の相談をした際「昌和工業の社長・風岡明憲さんをよく知っているので、恐らくOKだと思う」というところから全てが始まったような気がします。工場での撮影は土日中心とはいえ、それでも日数が足りず、平日に何日も工場を休んでいただかなければなりません。かつ、稼働中の敷地内にオープンセットを建てる必要もありました。本来の業務にどれだけ支障が出ていたか計りしれませんが、それらを快く引き受けてくださいました。住み込みのベトナム人従業員の方々には移住、工場内にある別会社の方はオフィスを移転までしていただき、さらに照明機材や備品などを置くための倉庫まで貸してくださいました。社長の風岡さんと奥様 、従業員の方々の全面的なご協力がなれければ、ここでの撮影は本当に不可能だったと思います。撮影最終日、主演の大泉洋さんと菅野美穂さんが「ありがとうございました!」と風岡社長と握手されていた姿が、言葉では語り尽くせない我々の気持ちを代弁していただいたように思います。
―――新幹線撮影の奇跡
本作では、主人公が名古屋から長野や東京の医師に会いに行くため、1970~90年代の新幹線のシーンが必須でした。名古屋にある「リニア・鉄道館」では、宣政さんが実際に乗っていた当時の新幹線だけでなく、長野に行くための列車まで展示してあることがわかりました。しかも、70年代、80年代、90年代と、それぞれの年代で主人公が乗っている新幹線も型が違う… JR東海さんのこの施設は、近年撮影がなかなか難しく、許可が降りないだろうと言われていましたが、 ダメ元で、なごや・ロケーション・ナビの三宅友里さんに相談したところ、意外なことに、話の内容としても新幹線との脈絡があるということで、撮影に協力していただけることになりました。しかも、シーンの年代に合わせた車輌でそれぞれのシーンを撮影することができました。 今まで小規模の撮影はあったようですが、これだけ大規模な撮影は初めてとのことで、JR東海さんには感謝してもしきれません。印象的だったのは、主人公が泣くシーンです。本作で最も涙を誘うであろうとわかってはいたものの、実際の新幹線で撮影できたからこそ、よりリアルなシーンになったと思います。そして、また、品川にある本社にも伺い、車窓から見える風景素材の撮影も車輌を貸し切ってさせていただきました。ちょうどその頃、JR東海さんがフィルムコミッション的なことに力を入れていこうとしていた時期で、タイミングも良かったのだと思います。
―――映画を観光資源に
実際に起きた素晴らしいストーリーなので、紙媒体も含めてメディアの露出が多くなれば、自ずと地元の方々の共感も得られるだろうと思っていました。窪田義弘プロデューサーをJR東海さんや春日井市、名古屋市などにお繋ぎし、連携して映画のプロモーションができるよう手はずを整えるとともに、私自身も「(プロモーションに) 全面的にご協力をお願いします!」言ってまわっていました(笑)。窪田さんが地元の方々やロケでお世話になった方々を大切にしながら長期にわたり、大々的にプロモーションしてくださったので、この映画が地元の観光資源になれば嬉しいです。
―――熱意が映画の力に
フィルムコミッションの魅力は「熱意」の一言に尽きます。
皆様、この映画の内容に共感し、なんとかこの映画を世に送り出そうと情熱をもってさまざまな難題と向き合ってくださいました。「作品に対し熱意をもっていただけるか」が、いろいろなことに波及しますので、そのお気持ちがなければできなかったことも無数にあり、できることもできなかったと思います。幸せな出会いに心から感謝しています。
メッセージ
岸田P:観て感じていただくことが、きっとあると思います。ご家族の取組みや偉業は我々が映画を通して届けたかったことですし、もしかしたら知らなければいけないことなのかもしれません。だからこそ、もし気に入っていただけたら、誰かにこの映画を届けてほしいと思いますし、人のつながりを信じてみたいと思えた作品です。
大瀧P:人が亡くなることの悲しさではなく、命のバトンを未来につなぐという希望を描いたのがこの作品の個性です。観ていただいてとても優しくなれる作品だと思いますし、自分の限界を決めなくていいと思わせてくれる作品でもあるので、ぜひそのあたりを感じていただけたら嬉しいです。